えへへへへ


by under-heart
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殿、ご満悦。

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 うむ。

 今週の「To Loveる」(26話)大爆笑。

 あっぱれである。
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by under-heart | 2006-10-31 19:12 | by the wey

Magic Love

およそ二年前の携帯電話メール。

「最近ええ音楽ある?」

「レッチリのジョンが一年間に六作品出すとか、訳分からんな」

「で?」

「案の定、徐々にレベル落ちてるな」

「なるほどな」

「ついでに、ギャロと交友が深いっていう情報はいらんか?」

「いらんな」

「だな」

「最初に手を出すなら?」

「シャドウズなんたらだな、泣けるのは」

「そ、そそ、そんなに俺を泣かせてぇか!!」

「まばたきの瞬間に魔法をかけてやりてぇ・・」


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そんな一枚

ジョン・フルシアンテ
シャドウズなんたら
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by under-heart | 2006-10-15 20:55 | at a loss

No shelter

2006年 10月×日

  AM08:00前後

自宅上空に二機のヘリコプター。
 「○○中学校三年、△△君、□□君、◇◇君、▽▽君、気が付きましたら合図をお願いいたします、合図をお願いいたします。○○中学校三年、△△君、□□君、◇◇君、▽▽君、気が付きましたら合図をお願いいたします、合図を・・・」

自宅前の道路にはテレビ各局の中継車やパトカーが忙しく走り去る。

母親は近所のお土産屋に電話で連絡。
 「昨日からのー、中学生が四人、○○山で遭難したんだってよぉ。神社の前に捜索本部組んで、だいぶ賑やかげだよ、まんずたまげらいのぉ」

  AM09:00

捜索本部のおかれる「道の駅」なる場所を野次馬根性で散歩がてら覗いてみる。
警察は忙しなく動き、一部立ち入り禁止。
日テレ、TBS、フジ、朝日、テレ東、地元TV局などのそれぞれのスタッフが緊張感のある動きをし、騒然となっている。
善良なるボランティアのつもりで「地元住人コメント」提供者として、何食わぬ顔で仁王立つがどなた様もあたしを放置。
仕方なく、善良なるボランティアのつもりで友人へ現場より実況生中継電話を始める。

  AM11:00

友人からのメール。
 「おい、オメェん家んトコの○○山で遭難事故じゃねぇか!」
 「なんで知ってんだ?」
 「テレビ、今はどこでもそれだぞ!」
テレビで確認をとる。
さすがに嫌な予感がよぎり、事の重大さに胃が痛む。

  AM11:30

母親が自宅前にて、
 [肩を落とし、申し訳なさそうに無言で歩く、どんよりとした中学生らしき四人組]
が神社方向へ歩いてゆくのを発見。
近所のお土産屋に電話。
 母「今ね、それらしいのがそっちに歩いてったけど、ちょっと見てみて」
 土産屋「あれぇ、ほんとかいね?ちょっと待っててね」

 ・・・。

 土産屋「今、外出て見てみたらね、警察からみんな、一斉にバーってそっちに走っていったよぉ、アハハー」

 TV「臨時放送を致します、ただいま、~県~市~町の○○山で遭難し、行方不明と思われていた中学生四人が無事保護されました。えー、四人は・・・」

  PM03:00

自宅前にてテレビの撮影が行われる。
 キャスター「遭難していた四人は、自力で下山し、こちらの県道を歩いていたところ、偶然車で通りかかった教頭先生に発見され、保護されたと言うことです。教頭先生が『寒くないか?』と尋ねたところ、『寒くないです』と答えたそ、」
 カメラマン「ストップ、すいません、今撮影中でして、その、写ってます、ちょっとどいてもらえますか?」
注意される。
こんな騒ぎを好むスノッブな友人へ、野次馬ガイドとして再び撮影現場からの実況中継電話をかける。
 カメラマン「あの、先ほどの方、その、音声入ってます、ちょっと、電話は家の中でお願いします」
くやしいので我が家所有の駄犬の鎖を外す。

  PM06:00頃

家族でTVに食い入る夕食。
 「あ、写った、写った、家だ、家だ」
我が家検索の為、チャンネルを頻繁に巡らし、夕飯どころではない。
しかし、どちら様もあまりに軽い扱いなので、興ざめする。

 「・・・あー、あの時、保護しとけば良かった」

 「あー、・・・ね」
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by under-heart | 2006-10-13 20:39 | by the wey
えー、掃除をしていると、家の中に蛇のベイビーがおりました。

江戸以前の風習で(特に関東から東北に多かったようですが)、秋の収穫時期が過ぎると作物の恵みに感謝をする祭りが催され、その日ばかりは、かまわず男女が入り乱れるという風習がありまして。契りあうのは屋外だからマムシに注意をしないとどこを咬まれるかわからない。
なんて事を思い出し、蛇が出ると、ついつい「色っぽい季節になってきたなぁ」なんて思ったりしました。

しかし、家の女連中は大騒ぎで、どうする?こうする?と、意見の出る中、捕獲をして「焼いて食う」だとか「焼酎につける」だとかいうあたしの精力増進案はことごとく破棄されまして、なにはともあれ、蛇の名前が分からない、と、専門施設に電話で問い合わせてみる。
どうやらそいつは「青大将」のベイビーだそうで、悪さはしない。
事によると「家神様」のようなものだと。
ならばとて、家の庭に放してあげる事になりました。あたしも青大将じゃ精力増進を望めませんのでそいつに賛成し、開放ということに相決まったのですが、
「家神様なら、お父さんが生まれ変わって来た姿かもしれないねぇ」
と母の一言に、やっぱり焼酎付けにしてやればよかったかもしれないなぁ、と一人ごちました。

先ほど、蛇で「色っぽい」なんて言いましたが、また蛇ほど、古来より「物の怪」の気配が強い生き物もいないような気がします。
日本では「大蛇」というのが神様になったり退治されたり大忙しで、西洋でもサタンという地獄の大将の化身としてアダム夫婦を誑かす。また、人に化けたりもするらしいのですが、考えるに女に化けた蛇なんてのは、こいつはやはり色っぽいでしょうな。

あの動きからして、腰は随分しなやかで引き締まり、腕から指へするりと一本線が通った美しさがあって、和服なんかを着せてみれば、服を一切れ角に引っ掛けただけでスルリと皮が、いや服が脱げそうで、それでいて凛と緊張感を保っている。
ぜひ、一度、一緒にお酒なんかを飲んでみたいもんで。「うわばみ」なんていうから大層強い上に飲みっぷりがいい。それに負けじとこっちも飲むが、飲みつぶれた時にゃあどこを咬まれるか分からない。そんな危険な視線と目が合えばどんな男も朴訥な石ころでしょうな。

しかし、蛇みたいないい女と結婚なんかしたら大変でしょうね。毎日締め上げられて、生きた心地がしない。危険な飲み相手がちょうどいいのでしょうね。
なら奥方にするならってえと、やっぱり、日本的に「ツル」なんてのが色っぽくっていいのでしょう。その上、一度受けた恩は身を犠牲にして返し、尽くしてくれる。なんてのがイジらしいじゃありませんか。
と、言えども、夫婦の間柄で肝心の夜中に一人で部屋に籠もっちゃうのはいただけない。「絶対に入らないでおくんなまし」なんて言って、翌朝には疲れ果てた顔して出てきやがる。どうも、まぁ、ナニが、ナンていうか、心配でいけない・・。

そこで、まぁ、世間一般の殿方はどうか?と、見回してみると、どういうわけだか八割方は「ぶた」や「うし」を奥方に持つ。人がいいと言うか趣味がアレというか、いやはや、ご苦労さまでありまして、じゃあ残りの二割はというと、「熊」や「象」・・。恐ろしいもんで。

ま、殿方の方でも「たぬき」や「かば」ばかりなのですから贅沢は言えたものじゃございませんが、こう見るとどうやら「四つ足」ってのはロクなのがいないようで。「いのしし」ってのも今ひとつだし、「馬面」ってのも褒めてる事にはならない。猫が可愛いったってコタツで丸くなっちゃうんじゃしょうがない。性格は穏やかに「丸い」方が良いときても、
「丸くとも、一角(ひとかど)あれよ、ひとごころ。あまり丸きは、転びやすきぞ」
坂本竜馬の歌でございます。

なるほど、四つ足でも角が一つ付いてんのが結婚に一番良いってんなら、そいつは「サイ」で決まりでしょうな。なんせ妻(サイ)と言うくらいですから。

お後がよろしいようで。
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by under-heart | 2006-10-05 09:16 | beyond description

夢見るように眠れない

先日はどうも眠りにつけず、ほとほと困り果てていました。
こんな時に、
「なんで眠れないんだろう、早く眠りたい、眠りたい、眠りたい、眠りテーナー!あー!」

などと、胸を掻き毟り、体温は上がり、布団も居心地が悪く、ますます頭が冴えるこれ以上ない無益な考えを起こしてしまい、また、意識のボルテージを上げるという、ファッキンなスパイラルに陥りがちで・・・、
秋の夜長はさすがに長いものですから、スパイラル状況下で、意識のテンションはネズミの子作りのように上がり続け、思考の流れは右往左往。
その一片は今日の母親との会話に繋がれました。

「東京で過ごしている時より、田舎暮らしの方が時間の進みが速いでしょう?」

理由は、田舎暮らしでは買い物一つにほとんど半日を費やしてしまうといったデメリットについて。三つ四つとお店を巡れば、南にあったお日様は確かに沈んでしまいます。
「うわー、もう夕飯かねぇ、なんだか時間を損した気分だなあ。」
こうして一日が駆け足で過ぎ、築けば立派に歳を取り行ってしまうのだなぁ、とポーっと思えばもう翌日の朝になってしまいます。

東京でも買い物目的で出かけると半日つぶれてしまうのは自然なのですが、不思議な事に時間の充実感が異なるのです。

思うにそれは生活上での情報量の差異によるものなんじゃないか?

都心では街頭を五歩も歩けば店の前から次の店、次の商品棚へと通りすぎることが出来ます。徒歩で進むことが基本的な文化になり、それでもデパートやら商店街やら雑多な情報量が飛び込んでくる。その中から忙しく取捨選択し、目的へと進むわけですが、当然、情報側からのユニークなデザインに因るそそるアイキャッチでの呼び込み、魅力的な匂いに誘われ、寄り道へと落とされれしまう。
落とされた後でも、理性と商品の間に忙しい情報が入り乱れ、財布の紐の緩急に苦悩させられたりする。
留まらない思考での気分は夢心地、まったく色っぽい話で、キャバクラそのものであります。

ただし、田舎の方ではそうはいきません。
目的地へ向かう道すがらは単調な畑道。
そうではないとしても、生活と家主の見栄が滲み出た住宅街をひたすら進むのみ。目的地の駐車場には持ち主の生活と見栄が滲み出た車が並ぶ。土地だけはあるから商品は雑多で、めいっぱい歩かされるが、店の需要は生活と見栄に限定されているので、面白みに欠けるから目移りもしないし、考える対象にならない。
そして、次の店に向かうために車に乗り、ルーティンな道のりで現実に帰る。
時間が不意に過ぎる。
盛り上がる話といえば「下ネタ」オンリーの田舎スナックのようです。

ま、その中でドラマは起こり、抜け道もあるのですけれど・・。

(もうここまで言ってフォローも無駄ですが、あたしは風俗好きではないですし、田舎暮らしも嫌いではないです)

雑多な情報を提供し、あたしを良く楽しませてくれたのは東京吉祥寺でして、家から近い事もあり、頻繁に利用していました。その一角に昼間はひっそりとシャッターが閉まっており、
「こんな駅前の一角が無益にさらされていていいものだろうか?」
などと徘徊当初に心配していた地域があるのですが、ま、慧眼な方はお気づきの通り、それは飲み屋街。人が入って10人以下、全席カウンターの小さな店の集まり。夜も更けると一段と活気を帯びてくるのです。

フォローをする訳じゃありませんが、飲んでもオネイサンのいる場に行かない代わりに、こういう飲み屋に顔を出すのが面白かった時期があり、飲みはじめるのが深夜12時からだから遅くまで(早く?)ご苦労しているこんな飲み屋が楽しかった。

その中で午前の六時、調子よろしく七時までやっている「○○山」という飲み屋があり、なんの因果かそこのお母ちゃんとお父ちゃん(こちら側からの呼称・夫婦できりもりしている)の故郷があたしと一緒という事で、不思議な親しみから重宝させてもらっている。
もちろん手作りの料理もおいしいし、値段も手ごろ。お酒でおいしいのは「果実割り」というものでりんごや梨、白桃などフルーツをまるまる一つミキサーにかけ焼酎で割る。これに細かい氷のようなものが入っていた気がした。

またそこのお父ちゃんはいつ行ってもカウンターの端でお客と話し飲んだくれており、万事お母ちゃん任せ。客席一つ埋めて只酒飲んでんだから全く不経済であるが、全く羨ましい限り。小さな男のロマンである。あたしが故郷の話をすると、お父ちゃんはふらふらになって席に近づき、
「産まれ、一緒、ほら」
と、昔の手帳みたいなモノを見せてくれた。そこには来店した同県の方の住所が書いてあるのだが、その手帳自体がお父ちゃんとあたしの同郷の証明になるかどうかは別として、
「ここ、書いといて、はい」
振るえた足と声でペンを渡されて住所記入をせがまれた。記入を終えると嬉しそうに手帳を見つめ、こちらを向いてにんまりと笑いながら頷く。あたしも頷かざるを得ない。
帰りがけにお母ちゃんは
「また来なよ、松井田の兄ちゃん」
腕を組み、上を向いた鼻からタバコの煙を正面に吐いて言う。何度も言っているのだが「松井田」はお母ちゃんの疎開先故郷であたしの故郷じゃあないんですよね。

遅くまでやっている店といえば隣の西荻窪に奇妙な店がある。
その店は、そのまた隣の荻窪からの最終電車に乗って、ママさんが入店し、店を開ける。つまり開店するのは午前一時半近く。そのママの風貌たるやミイラそのもので、笑い方も
「シャラシャラシャラ」
そんな感じ。同業の店終い後の飲み屋みたいなもので、あたしも初めては西荻のダーツバーのオネイサン(?)に店仕舞い後、連れてきて貰った。夜は白み始め、閉店した多くの飲み屋の中でポツリと怪しくピンクの小さな看板が灯り、地下へと階段を下りる。ちょっと、シラフじゃ跨げない敷居だ。店内は80年代の銀座風で8席位と狭いがシャンデリア風な照明に真っ赤な椅子とちょっとした高級感。
だが!
そこに魔女が出してくれるお通し午前六時は、揚げたてのアジフライとカキフライ。
もう訳わかんないから美味しく頂いちゃって、目覚ましテレビ見ながら酒のんで、最後の〆に味噌汁を作ってくれる。「今あたしはどこで何をしているんだろう?」こんな楽しさより、それからタマに顔を出すのだけれど、そんな店だから行くときは大体膝が笑ってる。
一度、相方はカウンターにひれ伏してノックダウンされちゃって、あたしは無声白黒映画の感動を延々と語っていた事があって、
「もうその話はさっき聞いたよぉ」
と、笑いながら魔女と近くの居酒屋の店長。学生時分のあたしは口角泡をとばし、もう、あること、ないこと。それに逐一丁寧に返してくれた。
「君は大学で相当天狗なんだね」と店長。
「へぇ、ごもっともで。下衆な野郎と評判でさぁ」
「ママ、ビール一本付けてあげてよ」
「ありがとうごぜえます。でも今日は飲みすぎですし、このビール、あたしの口に合わないんで。不味くってしょうがねぇんです」
「ずいぶん正直だね」
「ぷはー、不味い」
「うるさいよ。ま、また遊びに来なさい。話し相手はいるし、タマにはこうしてお酒を奢って貰える」
「いや、もう、このような酒は奢ってもらうに心苦しくって」
「そのわりに随分飲むじゃない」
「そりゃ、せっかくのご好意に泥を塗るわけにはいきませんから」
「じゃあ、もう一本やるよ」
「いや、面白いから私から出すよ」と、魔女。
そこから先は記憶にありません。

映画と言えば、最近はなんだか「風と共に去りぬ」がよく思い出されるのです。
「土を愛する」といった言葉が帰省したあたしに共感をよんでいるのでしょう。それでもって、本屋から小説を抱え込んで読み込んでやろうかと思ったのですが、

「ライ麦畑でつかまえて」は10代で読んでおくべきだ。との声を聞いたことがあります。「名作は名作なんだからいつ読んでもかわらんだろう?」と思っていましたが、大きな見当違いで。「風と~」も、もっと早く読むべきと実感。文章はシャレて面白く、読みやすいのですが、もう、冒頭からスカーレットという世間知らずのアバズレ、エゴ女の恋の行き先、浮き沈みを丁寧に描写してくれるものですから「ちょっと、今、そんなことはどうでもいいんスよ」と。口説き、口説かれ物語の中、人物は空っぽおつむの勝手野郎な手合いが序盤にセッティングされているので、その感性に素直に没入できない。
その奔放さが、中盤からの人間の強みを表現するのだろうが、到達せずに断念。なんだか凄く残念な気分。

あたしは10代の頃に本を全くに読まなかった。
感想文の宿題も「あとがき」や「解説」を利用していた。先輩の感想文を買った事もある。
酷い時には読書感想文の宿題に「読書感想文の感想」を書いた事がある。つまり、
「読書感想文というものは、数ある名作の中から自分に最適の一冊を選ぶところから始まるんですが、これが大変で、なにしろ、見栄を張って、森鴎外なんか読んでもちっとも解らない。だからといって児童文学や『ずっこけ三人組シリーズ』じゃあ、申し訳ないような気がする。・・・とにかく読書感想文は大変です」
といった具合で、もちろん却下。
大学に入り、
「雑誌でも新聞でも何でもいい、年間500冊の本をよみなよ」
と、信用ある筋から教えを頂いた事たあるが、全くサボった。そして今は全くその通りだと悟った。

先日友人から、
「アメリカドラマの『24』知ってるか?見てみろ。ヤベエぞ」
と、なにがどうヤバイのか、お前か?お前か?お前か?と、こっちが心配になるような不思議なメールが届き、薦められたのだが、食わず嫌い的に興味が湧かない。
日々の仕事で時間が埋まる度、こんな食わず嫌いが出てくる。

村上春樹「ノルウェイの森」で、主人公の先輩に、東大に通い、官僚になった努力家の先輩がいた。「人生は短い、発行後少なくとも50年経たない小説は読まない。50年の時の流れに耐えうる作品以外は信用しない」の類のことを言っていた。当時は
「うーん、偉い人だなぁ」
とその潔癖に感心していたものだが、今は、ただの臆病者にしか聞こえない。そして、あたしも臆病者だから、上記のアメリカドラマや現行の作品に対し食わず嫌いを催すのだし、若さと言う武器が無くなった今更に読書で理論武装でもするかのように、本をあさっているのだろう。

そこで「もっと昔から本を読んでおけばよかったなぁ」などと、前述の教訓が痛く感じると共に、無益でしょーもないことを考えるんだが、なら、なんの為に本を読むのかと問えば、またそれは答えが無くて、ただ、「面白いから」だとか「好きだから」などという陳腐な言葉に成る。
「本を読むと知識が増え、見解が広がり、人生を謳歌できる」などという新興宗教のうたい文句の様な理由は欺瞞の臭いがキツくて堪えられないし、もともとそんな甘く怪しい餌には喰いつく気にならない。
やはりあたしが本を手に取るのは臆病者であり、コンプレックスを抱え、どこかにその逃げ道をさがしているからなので、どうにかこうにか成長したいという見苦しい必死さが見えます。

ゆえに、最近の読書は「面白い」「好きだから」というのも、自らの成長のというカタルシスが隠れており、また、その裏に「安心感」という情けない心理が隠れているのでしょう。
こう臆病風に吹かれると、自己形成に最善の資料を提供しようとして札付きの作品しか読めなくなり、新しいモノへの探究心と開拓精神に欠けてくる。
例えるなら、「ブランド志向の教育ママ」といったところですね。

「言葉」は“発せられる”人間により、意味を変える。なぜ上記の読書の理由による言葉が陳腐に成るかといえば、それは臆病者の言葉だからなのです。「頑張れ」この胡散臭く、無責任な言葉も人間を選べば、あたしにとって信用出来る言葉に成る。そういう人にはあまり会った事は無いけれども、「頑張れ」の裏に「すまん」を含む人は信用できる。
あたしが「おもしれぇなぁ」と好意を持てる人間は2種類で、「実現力のある人」と「もう、どうしょーーもないヤツ」です。

友人のどうしょもないブログの中で、
「自分より優れている人の事を『才能あるね』の一言ですませてしまう人は信用出来ない」
との一説には思わず納得した。おそらくこいつはコンプレックスの塊なんだろう。
その後に「才能なんてあるのかね?」
で、閉めていたが、才能ってのは有るんだよ。

他の友人が、
「才能ってのは言葉だけで、その人間の意志と環境で完結する。ある技術に於いて初志を貫徹できる人間が才能というプロフェッショナルな技術を授かるのであり、迷い、諦める人間に宿らないのが才能ってヤツだよ」
その時は「なるほどなぁ」なんて事しか言えなかったが釈然とせず考えて見れば、才能はもっとプリミティブなものであり、その人間の個性そのモノだと思うのです。

「人は人の上に人を作らず、下に作らず」の福沢諭吉、「皆平等」であるはずは無く(人権はこの際省く。それは理想であるけれども、多くの社会に於いて真の人権の平等を人間は成立させていない)、十人十色、千差万別の人間模様ではたれ一人平等を保てやしない。

つまりそれは個人の「才能」というべきモノであり、限りなく「個性」に近い。「才能とは個人の素質や訓練によってモノを成し遂げる力」と言う通俗した意味の場合に、まずは先天的なものにおいて、背が高い事は才能の一つであるし、男であることも、女であることも才能であり、声が出る事も一つの才能であるし、片端ですら一つの才能であるし、爪が伸びる事も一つの才能である。と、あたしは判断する。

問題(才能の存在を疑う心理の)は、「それを自覚しているか?」と言ったところであり、例えば、千差万別において、人間は生まれながらに差別が図られているということを認めなければならず、差別を認めないクサレタ道徳心などが、(一部の)男女平等や新種差別撤廃、動物愛護といった悪質な差別を進めるのであり、つまり、「平均化」という輝かしい大義名分を掲げて、個性を消すために運動し、落ちぶれるものには圧力で潰し、人工的な醜い差別を下すのである。
中国4000年の歴史でも、猿の大王や豚の化け物、干からびた河童、屁理屈坊主といった一見全く接点を持たぬ面々が天竺へとお経を取りに行くという美しい志(?)を持ちえるから面白いのであり、実社会でも訳の分からぬ隣人と共同に生活せねばならず、ゆえに夫婦は喧嘩をするが、犬も喰わないので、認め、理解を示し歩み寄るしかない。

話を戻せば、人はどこまでも「不平等」であり、必ず「差異」が生じている。だからこそ「才能」の存在も優劣も区別も証明されるのであり、ドラマが生まれるのである。そのドラマに向き合う為には、自らの「才能」を認め、他人の「才能」を理解するということに収まってはくれまいか?くれまいか?くださいな。(確かにそれは才能だけの話ではなく、環境や習慣などもあるのだが、残念無念今回は省く)

また、先天的なモノを土台に後天的なモノが育つわけだから、全てが才能の成せる業だといえよう。それを信じ、育てる強靭な意思や精神ですら才能なのだ。贅沢な話だが、いくつもの才能が人間の中に集まるからこそ、病気の少年の為に予告ホームランを打つ野球選手が存在し、禿げのファンタジスタが存在し、飲んだくれで19ヶ国語を話せる学者が存在し、盲目のミュージシャンが存在し、難聴の音楽家が存在して、盲目の画家ですら存在し、三重苦の天使が存在しうるのだろう。
そして、人間に夢があるのだろう。
(黒人から白人に「成長」したという偉人の存在は愚物であるあたしには「才能」などの範疇ではサバキきれない内容なので割愛)

しかし(後天的に重点が置かれるのだが、先天的にしろ)そもそも「才能」や「夢」なんてものは「勘違い」や「思い込み」といった、お気楽な根性からはじまるのであるがー・・・云々、

ともかく、

秋の夜長は、このように延々とスパイラルが続き、内容も、文体も、時系列も、人の名前もてんでばらばらになり、思考の断片、断片がまるでそろわないルービックキューブみたいにこんがらがり、美しい形を求めて、一人、もくもくと弄っているようなものになる。
しかし、こっちがそろえば、そっちがズレて、
タンスの上の引き出しを閉めれば、下の引き出しが飛び出て向こう脛を打ち、しゃがんで下の引き出しを閉めると、真ん中の引き出しが飛び出しておでこを打つ。
これはたまらんと、両手両足、全ての引き出しを押さえ、閉めれば上からタライが落ちてくる。
美しくはならない。

思い出せば、美しいということは、呪うか、殺すか、争うかしなければならないといった作家がいたが・・・。

もくもくと、もくもくと。
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by under-heart | 2006-10-03 14:32 | at a loss